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第04話 婚約破棄

Auteur: あおはな
last update Date de publication: 2026-06-16 10:04:12

「セレナ・エヴァレット」

 王太子アルベルトの声が、大広間へ響く。

 楽団の演奏は止まったままだった。

 貴族たちは誰一人として動かない。

 誰もが息を潜め、これから告げられる言葉を待っている。

 壁際に立つセレナへ、無数の視線が向けられていた。

 銀髪の娘が、自分たちの代わりに森へ差し出される――と言うような視線を向けて。

 セレナは、灰色の布の内側でそっと息を整えた。

 大神官ベルンハルトから、森へ行くよう命じられた。

 リリアーヌから、国民のために耐えられるかと問われた。

 そして今度は、アルベルトが自分を見ている。

 ――婚約者としてではない。

 役目を終えた道具を見るような目で。

「お前との婚約を、ここに破棄する」

 驚きの声は上がらなかった。

 誰もが、予想していたのだろう。

 あるいは、最初から決められていたことなのかもしれない。

 セレナだけが、知らされていなかった。

「殿下……」

 名を呼ぼうとして、声がわずかに掠れた。

 何を尋ねればよいのか、自分でも分からなかった。

 なぜですか、そう問う必要があるのだろうか。

 答えは、すでに分かっている。

 アルベルトは、セレナの言葉を待たずに続けた。

「銀髪の女を王妃に迎えれば、国民が不安になる……近頃の魔物被害を見れば、なおさらだ。王家は民を導く立場にある。民が恐れる者を、未来の王妃として置いておくわけにはいかない」

 それはある意味、もっともらしい言葉だった。

 王太子として、国を思っているようにも聞こえる。

 けれど、セレナの胸には何も響かなかった。

 アルベルトは、最初から一度もセレナを王妃として見ていなかった。

 十二歳の頃、婚約が決まった日のことを思い出す。

 屋敷の離れへ、父オズワルドが珍しく足を運んできた。

 父がセレナの顔をまともに見たのは、あの日が初めてだったかもしれない。

「王家がお前を引き取ることになった」

 それだけを告げられた。

 喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、幼いセレナには分からなかった。

 ただ、父の顔に安堵が浮かんでいたことだけは覚えている。

 ようやく、この娘を手元から離せる。

 そう思っているような顔だった。

 後になって、使用人たちの噂話を聞いた。

 銀髪の娘を公爵家だけで抱えておくのは危険だ。

 万が一、災厄が起これば、公爵家だけでは責任を負えない。

 王家の監視下へ置くべきだ。

 ――婚約とは名ばかりだった。

 セレナを守るためでもない。

 王太子妃として迎えるためでもない。

 不吉な銀髪を持つ娘を、王家の目の届く場所へ置くため。

 逃げないように、隠れないように、必要なとき、すぐに差し出せるように。

 セレナは王太子の婚約者に選ばれたのではない。

 王国に飼われていただけだった。

「殿下」

 貴族の一人が、恐る恐る口を開いた。

「しかし、エヴァレット公爵令嬢は長年、殿下の婚約者であられました。今になって婚約を破棄なさるとなれば、国民の間に混乱が生じるのでは……」

 問いかけたのは、年老いた伯爵だった。

 セレナを庇いたいわけではないのだろう。

 ただ、王家の体面を気にしている。

 アルベルトは、落ち着いた表情を崩さなかった。

「だからこそ、今夜この場で明らかにする必要がある」

 青い瞳が、セレナへ向けられる。

「この婚約は、もともと王家が彼女を保護するために結ばれたものだ」

 保護――その言葉に、セレナは思わず目を伏せた。

 離れから王宮へ移されても、何かが変わったわけではなかった。

 夜会では壁際に立たされ、王太子の隣へ近づくことは許されない。

 王宮で用意された部屋も、華やかな居室ではなく、人目につかない奥まった場所だった。

 外出には必ず許可が必要だった。

 銀髪を隠す布を外すことも許されなかった。

 誰と会うのか、何を読むのか、どこへ行くのか。

 すべて報告を求められた。

 それを保護と呼ぶのなら、そうなのだろう。

 少なくとも、王家にとっては。

「だが、その配慮は誤りだった」

 アルベルトは言った。

「王家の側へ置いたことで、かえって災厄を王都へ近づけてしまった可能性がある」

 大広間に、ざわめきが広がる。

「やはり……」

「王都で魔物被害が増えたのも、そのせいでは?」

「恐ろしいことだわ」

 囁き声が重なっていく。

 根拠はない。

 けれど、恐怖に取りつかれた者たちには、根拠など必要ないのだろう。

 分かりやすい原因があれば、それでよい。

 セレナは、灰色の布の端を握った。

 首筋へ触れる銀髪が、ひどく重く感じられる。

「お前も、国のためなら理解できるだろう」

 まるで、言い聞かせるようにしながら、アルベルトが告げる。

 その言葉には、わずかな苛立ちが混じっていた。

 セレナが黙っているからだ。

 泣き崩れもせず。

 許しを乞いもせず。

 ただ静かに立っているから。

 アルベルトは、いつもそうだった。

 セレナが言葉を返さなければ、納得したのだと思う。

 セレナが反論しなければ、自分の判断が正しかったのだと思う。

 セレナが傷ついた顔を隠せば、何も感じていないのだと思う。

 けれど、それは違う。

 納得していたわけではない。

 ただ、何を言っても無駄だと知っていただけだ。

「アルベルト殿下」

 リリアーヌが、涙を浮かべたまま彼の腕へ縋った。

「どうか、お姉様をお責めにならないでくださいませ」

 その声は、よく通った。

 近くにいる貴族たちだけでなく、大広間の奥にいる者にも聞こえるほどに。

「お姉様も、悪気があったわけではないのです」

 セレナは、妹を見つめた。

 悪気があったわけではない。

 その言い方では、まるでセレナが本当に災厄を呼び込んだようだった。

 意図せず国を苦しめてしまった、哀れな娘。

 リリアーヌは、姉を庇っているように見せながら、罪だけはしっかりと背負わせる。

「リリアーヌ様は、なんとお優しい……」

「ご自身もお辛いでしょうに」

「姉君があのような方でも、最後まで庇おうとなさるなんて」

 令嬢たちの囁きが聞こえる。

 リリアーヌは、悲しそうに首を横へ振った。

「私にとっては、大切なお姉様ですもの」

 その言葉を聞いて、セレナは小さく息を吐いた。

 大切――先ほども聞いた言葉だった。

 けれど、リリアーヌは一度も、セレナを助けようとはしない。

 ただ、姉は悪くないのだと泣いている。

 姉を差し出すことには、何の異論もないまま。

「リリアーヌ……君は優しすぎる」

「ですが、殿下……」

「彼女を責めているわけではない、これは王国を守るために必要な判断だ」

 アルベルトは静かにこちらに視線を向け、そして周りの誰も反対しない。

 大神官ベルンハルトは、穏やかな笑みを浮かべたまま見守っている。

 父親のオズワルドも、母親マリアンヌも何も言わない。

 それどころか、父の顔には安堵さえ浮かんでいた。

 公爵家の責任を問われずに済む。

 銀髪の娘を、王家の命令で処分できる。

 そう考えているのかもしれない。

 セレナは、胸の奥に広がる冷たさを静かに受け入れた。

 自分が愛されていたことなど、一度もない。

 家族からも。

 王太子からも。

 婚約者という立場でさえ、本当は自分のものではなかった。

 必要なときに生贄として差し出すため、一時的に与えられていただけだ。

「セレナ」

 アルベルトの声が響く。

「何か言うことはあるか?」

 何か?

 何を言えばよいのだろう。

 嫌ですと否定な言葉を言えばよいのか。

 森へ行きたくありません。

 死にたくありません。

 私が災厄を呼んだ証拠などないはずです。

 そう叫べば、誰か一人でも耳を傾けてくれるのだろうか。

 セレナは、大広間を見渡した。

 誰も、自分を助けたいとは思っていない。

 彼らが望んでいるのは、安心できる答えだ。

 銀髪の娘が悪い、銀髪の娘を差し出せば、王国は救われる。

 その答えを、誰もが求めている。

 セレナは、灰色の布の下で目を閉じた。

 自分一人が消えれば、皆が安心する。

 幼い頃から、何度もそう考えてきた。

 離れから出なければ、母は怯えずに済む。

 食卓へ近づかなければ、妹は泣かずに済む。

 王太子の隣に立たなければ、貴族たちは嫌な顔をしなくて済む。

 それなら、森へ行くことも同じなのだろう。

 自分が消えれば、すべてが丸く収まる。

 喉の奥が、少しだけ苦しかった。

 それでも、セレナは顔を上げた。

「――承知いたしました」

 大広間が、静まり返る。

 アルベルトは、わずかに目を細めた。

 まるで、満足したようだった。

 やはり、セレナは逆らわない。

 そう思っているのだろう。

「婚約破棄を、お受けいたします」

 声は震えなかった。

 それだけは、よかったと思った。

 最後まで、公爵家の恥をさらすな。

 父に言われた言葉を思い出す。

 せめて、泣き崩れることだけはしない。

 それが、今のセレナにできる唯一のことだった。

「賢明な判断だ」

 アルベルトは頷いた。

「お前なら、理解してくれると思っていた」

 理解――セレナは、その言葉に何も返さなかった。

 理解している。

 アルベルトが、自分を婚約者だと思ったことなど一度もなかったことを。

 王家が、自分を守ろうとしたことなど一度もなかったことを。

 公爵家も王家も、最初から銀髪の娘を処分する機会を待っていたことを。

 十分すぎるほど、理解していた。

「殿下……お姉様は、これからどうなさるのですか?」

 その問いに、広間の空気が再び張りつめた。

 アルベルトは、セレナから目を逸らさないまま答えた。

「簡単だ……お前には今夜、魔物の森へ行ってもらう」

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